私の志の芽生え~幼少期・小学生時代編
<1961年千代田区にて生を受ける>
―生後10カ月頃の私―
若宮けんじ
国会がある永田町周辺で生まれ育ったことから、街頭演説や70年安保のデモ隊など、政治のダイナミズムを間近で見てきました。この幼少の頃の記憶が深く刻まれたせいか、政治に自然と関心がゆき、なぜ先の大戦に至ったのか、また戦後の焼け跡から日本がいかに急速に復興したのか知りたくなり、一生懸命調べました。
<泣き虫な自分からの脱却>
若宮けんじ
―小学校の同級生と学校の屋上で―
幼稚園の頃の私は、物静かで泣き虫な子供でした。
そんな私が一念発起して、いじめっ子に立ち向かったら、横暴な振る舞いがピタリとやみ、あろうことか周囲から一目置かれるようになりました。
その時、私は「勇気を出して行動すれば自分自身だけでなく、自分の周囲さえ変えることができる」と身をもって体験しました。
―鼓笛隊を指揮する私―
若宮けんじ
この出来事は私を変えました。
「行動することで何かを変えることができる」と確信を持ち、その過程で自分に自信が植え付けられていくと、さまざまなことに挑戦するようになりました。鼓笛隊の指揮者、運動会での応援団長、学級委員長など……、挙げればきりがありません。
リーダーとして行動するようになると、人とのつながりがいかに大事か、皆で協力して成し遂げたことがどんなに人に達成感や幸福感を与えるかを実感しました。小学生時代のこの経験が今の私の根っことなっていることは間違いありません。
「1点の重み」と「外の世界」を体感~中学校・高校生時代編
<バスケットボールが教えてくれたこと>
若宮けんじ
―バスケットボール部の仲間と―
(後列一番左端が私)
放課後の厳しい練習に耐えながら充実した毎日を送っていました。そんな中、今でも鮮明に覚えている試合があります。
延長を含む 2 時間以上の長い試合、もうこれ以上ファウルできないという 5 ファウルの緊張感の中、最後までチームメイト全員が集中力を切らさず、結果、わずか 1 点差で勝利をつかんだのです。
その試合は私に「1 点の重み」と「最後まで諦めずに努力すればおのずと道は開ける」ということを教えてくれました。
<外の世界で学んだこと>
1977年 4 月慶応義塾高等学校に入学。晴れて高校生になった私は、アルバイトをすることにしました。放課後は学業があり、中等部のバスケットボール部のコーチも務めていたため、バイトができるのは朝の時間のみ。それで新聞配達の仕事を始めました。
早朝に新聞を配った後、授業に臨むというのは想像以上にハードでしたが、誰よりも早く新聞を通して社会情勢に触れられ、学校ではなかなか接することのできない年上の方達と話をし、いろいろな考え方を学ぶことができました。また、自分でお金を稼ぐ大変さを身をもって知り、両親への感謝の気持ちも芽生え、本当に貴重な体験だったと思います。
ビジネスの学びと実践~大学生・新人社会人時代編
<ビジネスの基礎をゼミで学ぶ>
1980年 4 月、慶應義塾大学商学部に進学。大学 3 年時に、日本の商業学・マーケティング論の第一人者とされていた村田昭治先生のゼミに入りました。
―ゼミ代表としてスピーチ―
若宮けんじ
ゼミでの勉強は厳しくはありましたが、非常に楽しく、中でも週 1 回行われていた、社会で活躍されている経営者の方々からの生の声を聴く特別講義には大きな刺激を受け、商業的立場から社会に貢献したいという気持ちがどんどん強くなっていくのを感じました。
<若手の私がセゾングループ代表の秘書に>
1984年 3 月に大学を卒業し、セゾングループの不動産開発の会社に就職しました。ある時、新築マンションを年度末までに500戸売るというかなり厳しいノルマが課せられました。その当時は好景気の追い風があったとはいえ、容易に達成できるような数字ではありません。そんな時、都心から郊外への不動産の買い替えで、譲渡所得税の課税を繰り延べされる租税特別措置法が適用される対象者に売り込みをすることを思いつき、企画提案を行ったところ、それが見事に的中。マンションは完売となりました。
若宮けんじ
―ゴルフコンペで堤代表と共に―
すると、社内で面白い若手がいるということで社長に呼び出され、しばらくしてグループ代表である故堤清二氏の元へ連れていかれました。それが堤代表との運命的な出会いでした。代表の秘書兼統括的な事業補佐を担当することになり、国内外の事業買収や企業合併、新規事業の立ち上げ、労働組合との折衝など、普通の若手社員では到底経験できないようなさまざまな業務に携わり、そこで得た経験が今の私の糧となっています。
社会情勢の変化を受けて、国政選挙に出馬
<自分に大きな影響を与えた国際的事件>
1991年に始まった湾岸戦争は国際的なビジネスを展開していた会社にとって、大きな打撃となりました。そこに日本経済のバブル崩壊、金融引き締めなどが追い打ちをかけました。戦後生まれの自分にとって、遠い国で起きた戦争が自分の周辺を、そして日本の国民生活を一変させたことはかなりの衝撃でした。この時ほど国際政治・経済、安全保障や外交の重要性を感じたことはありません。
―湾岸戦争の勃発を告げる当時の新聞―
若宮けんじ
1998年には北朝鮮が日本列島を超えるミサイルの発射実験を行いました。アジアでも安全保障上の危機が高まります。そして、2001年、米国で同時多発テロが起きました。その当時、会社を経営していた私も、国内で厳しさを増す金融引き締めに影響を受けた一人でした。バブル時代に是非借りてくれと頼んできた金融機関が一転、約束より早く回収しようと返済を迫ってきます。そのため資金繰りに四苦八苦し、中小企業経営の厳しさが身にしみて分かりました。
<子育てを通じて分かったこと>
若宮けんじ
―小学校の運動会でスターターに―
私には長女、長男と二人の子供がいます。子育てを通じて、小学校の PTA 会長など地域社会とのかかわりを持つ中で、すべての子供たちの幸せな未来を切に願うようになりました。自分は国際的な環境の変化の中で苦労した体験を持っていますが、未来の子供たちにはそんな苦労をさせたくない。安定した国際社会の中で幸福な生活を送ってほしい。
そのために自分は何ができるのだろうか?
「国会議員として国のために働くこと」――それが答えでした。そして、立候補に至ります。
大手企業の社員時代、堤代表の傍らで日本の国際競争力の脆弱さ、ひいては外交・安全保障の重要性を学びました。一中小企業経営者としては厳しい経営環境を体験しました。そして一人の父親としては、子育てを通じて身近な暮らしの問題に向き合いました。
こうした経験のすべてを武器にして、今後の日本と国際社会の安定、同時に暮らしの現場から未来を創造することに全力投球していきます。
是非、皆さんの課題も私と共有させてください。より良い未来を一緒に築いていきましょう。
若宮けんじ
「新しい時代、確かな未来を。」